1974年イスラエル生まれ。オランダ育ちのイスラエル人の父と、ジャワ生まれれのオランダ人の母を持つ。パリで育った彼女は幼いころから両親の影響をうけ、ユダヤ人移民のイディッシュ音楽からアメリカン・フォークなど、ジャンルにとらわれない多彩な音楽を聴いて成長していった。そして両親からギターを与えられたことを機に、音楽家への道を志すようになる。この頃彼女が好んで聴いていたのはジョニ・ミッチェルやセルジュ・ゲンズブールだったという。コンピューター関係から哲学、心理学を学ぶという学生時代を過ごした後、当代きってのプロデューサーであるバンジャマン・ビオレーと運命的な出会いを果たす。公私とものパートナーとなった二人は、2000年、ほぼ全ての曲を共作したデビュー作「La Biographie De Luka Phllipsen」を発表し、フランス音楽界から賞賛の嵐を浴びる。ケレン・アン、25歳の春のことだった。

 さらにケレンに好機が訪れた。当時ビオレーがプロデュースしていた仏音楽界の大巨人、アンリ・サルヴァドーレの復活作に彼女の楽曲を起用することになったのだ。アンリは彼女の楽曲をとても気に入り、彼女をライブに参加させるなど協力と賞賛を惜しまなかった。アンリに曲を提供したということでソングライターとしての地位と評価を不動のものとした彼女は、2002年、満を持して次作「La Disparition」を発表する。しかし、この2作目を発表した時点でビオレーとのパートナーシップは解消。彼はマストロヤンニとドヌーブの娘というセレブ、キアラ・マストロヤンニと結婚してしまう。La Disparition=消失。このアルバムはジャケット通りのもの悲しいタイトルがついている。しかし、このアルバムの美しさは僕が今まで聴いてきたどのアルバムにもひけをとらない。 「歌は刺青のよう」 こう歌ったのはジョニ・ミッチェルだが、まさにケレンは21世紀の『BLUE』を創り上げたと言える。

 2003年、アイスランド出身のミュージシャン、バルディ・ヨハンソンと知り合い、LADY and BIRDという覆面プロジェクトを立ち上げ、アルバムを一枚発表したあと、 いよいよ世界戦略をにらんで英語で歌った3作目「NOT GOING ANYWHERE」を発表。そして2004年夏、待望の日本盤が発売される。